国境の南

雑感

街とその不確かな壁

すごくシンプルだった、というのが読み終わってまず抱いた感想。なぜなら最近の村上春樹の長編作品は読み始めてもなんとなく冗長に感じて、一旦興味を失って寝かせて置いてしまうことが多かったから…壮大な冒険も仕掛けもないが、著者がこれまで「手を変え品を替え」書いてきたことが静かに示されていた。

生と死、過去と現在、自分と他者、実体と影などの対比やあてもない散歩、図書館、川、海にふる雨など、見覚えのあるさまざまなモチーフ。全部盛りで、これが最後の長編小説と言っているわけだし、集大成ということなのか。『新潮』6月号の「七つの視座で読む村上春樹新作」で小川哲さんはこう述べている

 はたして本作は「集大成」なのだろうか。あるいは「再生産」なのだろうか。

 この作品を読んでどう感じるかは、それぞれの読者が決めることだ。それは間違いない。ただ僕は、「集大成」でも「再生産」でもなく、「収穫」と評してみたい。

全てのモチーフは今作の元になった『街と、その不確かな壁』に既に登場しており、その「種」が今やっと自らの手によって収穫された、という読み方が確かにとても自然に感じられる。

個人的には第一章が終わって第二章に入るところでかなりシン・エヴァ感を感じて盛り上がってしまった。突然なに?

小川さんの書評に戻ると、本作が今の時代にこうして出されたきっかけとして新型コロナの影響があるのではないかと書かれている。村上春樹本人はあとがきで、そういうこともあるかもしれないし、ないかもしれない、みたいなことを言っていて本当のところはよく分からんけど。「他者と関わること」について自分がコロナ禍初期の休業前後に考えていたことと重なる部分があるように思ったので当時のtumblerから引用してみる。

 

2020/5/19

久しぶりに電車乗って都内に出て思ったけど、やっぱりこれ一旦落ち着いたとしても新しくスタートみたいな感じより今までよりもっと悪い地獄から続きを始めるみたいな感覚の方が強いなと思った。みんなこれからの時代をどう新しい切り口で乗り越えるかみたいな、変わっていくかみたいな話ばっかりするけど別に現実そんな変わってない、現実って私が生きていく狭い世間の話だからまた違うのかもしれんけども、ウェルベックの言っていたことがちょっとわかった気がしたようなしないような

仕事が始まるのが本当に嫌だな。他人の考えが意志があらゆるところに介在する、めんどくさい。一人だけで生きていきたい、でもたまにどうでも良いことを話したい、どうでも良くないことが仕事とか政治とか経済とかの話なわけですね。なんか、人いっぱいいてそれぞれが別々のことを考えているって恐ろしいなって、いや恐ろしくないな、めんどくさいだけだわ。でも自分がもうちょっとマシになるためには他社との対話が必要なんだろうなってこの生活をしてしみじみ思って、今日電車の中でも考えていた。特別悪いこともないが特別良いこともないこの生活のことけっこう愛しているんだけどな。めちゃめちゃに泣きたくなったり自分が損なわれたって思うようなことがないってすごくいいと思う、どうして働いてるとそんなことになってしまうんだろう、でも別に働いてなくて学生の頃でもそういうことはあったな。やはり人間はたくさん集まると良くない

 

 

 

 

暗いですね。

暗いしなんかごちゃごちゃ言っているが、私は隔離された生活に不安はあったけど不満はなかったというか、自宅と近所だけで完結した生活意外といけるかもなという感じではいた。他人との関わりから解放された、時間が停滞したような上書きされていくだけの日々。「街」での生活もきっとそうで、「私」にとってのトリガーはやはりコーヒーショップの彼女であったんだなと思う。彼女に向けて能動的な行動を起こした結果、「私」の中での時間の流れが変わったのではないか。

 カウンターの上に置いた私の手に、彼女が手を重ねた。五本の滑らかな指が、私の指に静かに絡んだ。種類の異なる時間がそこでひとつに重なり合い、混じり合った。胸の奥の方から哀しみに似た、しかし哀しみとは成り立ちの違う感情が、繁茂する植物のように触手を伸ばしてきた。私はその感触を懐かしく思った。私の心には、私が十分に知り得ない領域がまだ少しは残っているのだろう。時間にも手出しできない領域が。

ノートに写しておきたい素敵なシーン。手と手が初めて触れ合うときのあの心の震えみたいなものを思い出させる、本当に良い文章…

 

新潮の最果タヒさんの書評もとても好きだったんだけど、コーヒーショップの彼女が初恋の彼女より説得力を持たない存在であることについて書いている。「私」が「待つ必要がある女性」を求めていたなら、コーヒーショップの彼女でなくても良かったのではないか?という疑問に対して。

長く引きずってきた過去の恋への未練が終わる時、そこに「絶対的な恋」を求めるのはあまりにも図々しい期待だ。人の命は未熟で生っぽくて、それから「オチ」のためでも「結末」のためでもない過程を愛することができる存在だ。「私」はまさにそういうあり方を最後に選び、そうして「街」を出ていった。過去より現在が優ったからでも、過去を諦めるのでもなくて、人は生きているから。

生きていくことって偶然や予測できないことの連続で、「運命的な恋」なんてもので人は死んだりしない。「恋できみが死なない理由」というタイトルも素晴らしい書評だった。

 

 

国境の南、太陽の西』のラストにも海に降る雨の描写が出てくるので個人的にはオッと思った。卒論で書いた作品の為…

ちなみに今読み返したら国境の南のラストは

誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。

と終わっているから、きっと「私」は受け止められたのだと思っている。

 

 

最後に、あとがきのラストの一文でクソ笑顔になってしまった。

素晴らしい作品だった。私が生きているうち何度も読み返すと思う。